最近では葬儀は規模も小さくなりました。
家族葬というような家族やごく親しい親族のみが参列するものも非常に浸透してきています。
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それでもまだ小規模な葬儀は故人の恥である、または蔑ろにしているといったような見方をされる方もいます。
このような場合に葬儀は大規模にする必要があるのか?について紹介したいと思います。
葬儀とはもともと小規模だった日本
おそらく故人の恥といった観念を持つ方は昭和生まれかあっても大正生まれではないかと思います。
日本の葬儀はもともと戦前までは小規模だったといわれています。
ちょうど現在流行している家族葬のような家族やごく親しい人が参列するということが一般的でした。
しかし戦後の高度成長期に入り、次第に葬儀は大規模となり、顔も知らないような会社の関係者なども参列するようになったと聞いています。
つまり小規模な葬儀とはもともとの日本の価値観に沿ったものであり、大規模な葬儀のほうが日本の歴史においては異例といっても良いといえます。
葬儀のもともとの趣旨は規模ではない
また臨終となって故人の求めることとは何でしょうか?
それは後に残る者の幸福です。
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そして時間は経過し、どのようなすごい人でもいつか完全に忘れられるものなのです。
葬儀とは故人の人生を卒業させることであり、決して故人のすごさや見栄や感傷を果たすものでもありません。
死後はそのような人間的属性とは無関係となるので、他の人からどのように思われるのかは基本的にどうでも良いことです。
どうでも良いと思えないのは、主に残った家族であって、故人の葬儀が小さいといったことで他者から非難されることを恐れるという心理に原因があるのです。
無理をして葬儀を大きくする余裕もない時代
昔の昭和では結婚式も大変豪勢にする地方もありました。
結婚式で家の財産が劣化するようなこともあったようです。
しかし「現在は葬儀に費用はかけられない時代?」でも紹介していますが、
- 寿命の長期化
- 介護期間の長期化
- 老人ホーム入居などによる資産の劣化
- そのような状態での葬儀
といった厳しい経済状況にある人も非常に多いです。
やはり故人よりも生きている人を優先して生活をしていかないといけません。
借金をしてまで、将来の生活に変動や異変が起こる程度の葬儀はむしろ他者に何を言われても行うべきではないと思います。
それよりも予算をいくらかけたか?ではなく、心がこもった故人にふさわしい葬儀をできたのか?ということを評価基準にして考えるべきだと思います。
故人の評価は葬儀ではなく生前の行ったことにある
それでも葬儀についていろいろと言われることもあるかもしれません。
私なら仮に何か言われても完全に無視をします。
どうでも良いことだからです。
それよりも生きている間に何ができるのか?社会にどのように貢献できるのか?といったことに労力を使いたいです。
葬儀とは故人のすごさを表すものではなく、それは家族の見栄といっても良いかもしれません。
故人のすごさはむしろ葬儀ではなく、生前の人生で行ってきたことにあるのではないでしょうか?
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