もともと釈迦、ブッダによって創始された仏教というのは葬式を目的にしたものではありませんでした。
伝記等でも物語風に描写されることも多いのですが、真理の追究と悟りへの道が仏教の目的でした。
一方で日本の仏教では悟りを目指して毎日修行をしている僧侶の方もいる反面、葬式のときしか国民に必要とされないというようになっています。
この葬式にしか求められない仏教を葬式仏教といって、仏教の本来の教えとかけ離れていると批判的に言われるのが
「葬式仏教」
という言葉です。
葬式仏教と貴族との関係
平安貴族は現世において金銭的にも幸福な人生を歩むことは多かったのですが、その貴族の関心の的となったのは死後の幸福でした。
平安時代の末期に仏教において法然という高僧が出現し、浄土教を興しましたが、その中に
「念仏を唱えれば浄土に行ける」
というものがありました。
法然はそれまでのように仏教による来世の幸福を達成するのが貴族のみということに疑問を感じ、民衆布教を行うようになりました。
貴族にとっては死後の浄土を保障してくれる浄土教には大変な魅力がありましたが、この法然の民衆にも布教するという考えは徐々に貴族だけではなく民衆にも念仏を唱えることで浄土に行けるという信仰は定着していったとされていきました。
貴族にとって浄土というのは天国であり、豪華でなければいけなかったのかもしれません。
今もお寺の祭壇は金箔も貼られて豪華ですが、祭壇は浄土を表現したものと言われています。
言いかえれば豪華な葬儀や祭壇の風習というのは平安時代からの貴族の考えが民衆に今も残っているといっても良いのかもしれません。
参照
曹洞宗と葬式仏教の発生
このような中で道元という僧侶が曹洞宗を開きました。
永平寺において開祖し、今もその寺には多くの観光客が訪れます。
道元が推奨したかどうかは不明ですが、曹洞宗によって寺の財政的基盤を安定させるために葬式を仏教で行うということが進められたと言われています。
葬儀とは豪華にしなくてはいけないものか?
平安時代から鎌倉時代にかけての貴族の浄土への豪華なイメージ、そして葬儀は仏教によって行うべきということが定着し今も歴然とこの流れは残っています。
現在も信仰は特にないと思いつつも、何となく葬儀となれば宗教式にしなければいけないというように思ってしまう人も多いかもしれませんが、先祖から脈々と続く日本人の潜在意識には今も1000年以上も前の平安貴族の考えが残っているといっても良いのかもしれません。
葬儀では世間体というものもあって、ときに借金しても豪華な葬儀をする人もいます。
参照
「葬儀費用が足りないので友人や親戚にお金を借りることは妥当?」
しかし次第に葬儀は豪華にしなければいけないというイメージも薄れつつあって、喪主の資産状況によってできる範囲で葬儀は行うというような時代になりつつあるといって良いでしょう。
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