死については古来からいろいろと解釈がなされてきました。
しかし葬儀ではいろいろと感じることがあるものです。
私も経験がありますが、生前を知っている人の遺体を見れば特にいろいろなことを感じるものです。
今回は葬儀に参列して生きる気力を失ったと感じるケースについて紹介しておきたいと思います。
今まであったものが亡くなるという喪失感
特に
- 痩せた遺体を目にしたとき
- 火葬をして骨だけになったのを見たとき
このような段階で喪失感のようなものを感じることは多いかもしれません。
たとえば以前は健康な人、しっかりと生きている人として印象を受けてきました。
しかしそれが痩せている、また骨だけになったということで以前とのイメージのギャップが埋まらないということはよくあります。
そしてしばらくは
- 自分もああなるのか?
- 親や兄弟などの死亡でも何度も葬儀をしてあの感じを味あわないといけないのか?
といった感覚を持つようになります。
葬儀は慣れるものか?
結論から言いますと
「ある程度は回数を経験することで楽になることはある」
ということはいえます。
しかし完全にはなくならないものかもしれません。
受け身もなくいきなり倒れるとそのショックも特に大きいものがありますが、たとえば何度か葬儀も経験をしていると精神的な受け身がとれるようになっていきます。
たとえば
- 臨終から葬儀・火葬までバタバタしないように準備をしておくことの必要性がわかる
- 死というものがどのようなものか手触りで理解できる
- 死後の喪失感も最初からある程度理解できる
大きくいえば、このような受け身がとれるのでショックはいくらかやわらぎます。
そして回数を経て、生きてさまざまな経験を経るごとに次第により楽になっていきます。
葬儀を経るとは自分の死も想定すること
何度か経験しているうちに次第に
「自分の死」
についても考えるようになります。
人間とはおかしなもので生きているとき、健康なときには意識中断のように何も考えずに生きています。
しかし死は自分だけを通りすぎるものでなく、自分にも100%の確実性で直撃してきます。
そのときにその逃れられない宿命にどのような心構えで対処していくべきなのか?ということは非常に重要なことで、ある意味で人生の意味はここに集約されているのです。
親族や家族の死、そしてやがて来る自分の死を考え、心の準備をしておくことは今回のケースに該当する方には資質があると思います。
たしかに嫌なものとも感じますが、逃げずに考えていくことは今回の人生の価値を大きく伸ばすことにもなります。
参照
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