葬儀の目的は古来からいろいろと諸説あります。
私個人としては
「故人の人生の卒業式」
というように考えていますが、異なる見解はいくつかあります。
参照
今回は葬儀の意味について再度確認してみたいと思います。
死の確認をできない人間の意識の構造とは?
有名な見解として葬儀で喪主や家族の悲しみを和らげるというものがあります。
臨終となって通夜での家族での語らいもあります。
葬儀では読経とともに故人とともにいるという時間もとることができます。
また最後に火葬という段階でも、斎場から火葬場までの車中の時間もあります。
そして最後に火葬場で故人と最後の面会をします。
このような一連の流れで次第に故人となったことを認識し、お別れをするときが来たと認識します。
もともと本当はこのような時間や儀式はいらないのかもしれません。
客観的に見れば臨終の段階で亡くなっているのですから、その瞬間に納得して冷静に故人はなくなったと認識することも本来は可能なはずです。
しかしこれがなかなかできないのが人間の常です。
よく災害に遭った方が「まさか自分が・・・」というような発言をしているのを聞きますが、通常死や病気などはいつか確実に自分にもやってくるとどこかでは理解していても、実際にやってくるとみな驚き夢ではないかと事態を意識は消化できません。
それは
- 事態がどこか他人事だと思っていた
- 事態の覚悟を普段からしていなかった
- 事態を直視する精神力がないから
といったようなことがあるのだと言われています。
私もみなさんもいつか自分や家族や愛する者の死を経験するときがきますが、それをまず瞬時に理解し消化する能力がないのが現状なのです。
しかし興味深いことに消化しなくても、事態はすでに起こっているのであって、苦悩や葬儀の手続きなどは待ったなしです。
ある意味で茫然とした中で葬儀は進みます。
臨終で病院は数時間ですぐに遺体を搬出して欲しいといってくることがありますが、これは他人として遺体を客観的に見て消化できているからです。
主観的に遺体を悲しみの対象として見れば搬出も思うようにできないのですが、病院関係者のように遺体としてただ見る強さがあればある意味で家族の死どころか自分の死さえも怖さや驚くこともないはずです。
参照
「病院などの死亡場所から遠い葬儀社と契約をしてはいけない?」
死を時間や儀式遂行によって理解する
臨終後しばらくはこのような状態でただおろおろという方が非常に多いです。
しかし時間が経過するごとに次第に意識は故人の死を消化していけます。
通夜での家族での語らい、葬儀での焼香、火葬場までの見送りの時間、火葬後のお骨を見ること、このような一連の流れの中で人間の意識は五感によってようやく故人の死を受け入れることもできます。
たとえばお骨広いで、故人の肉体がなくなり、骨を目にしたときに軽くショックを受けますが、ある意味で死を消化するステップともいえます。
孫もいればまだ小さく死を理解できないのですが、孫の教育も葬儀は兼ねる部分もあります。
葬儀はお金もかかるし、時間と体力もたしかに使いますが、死を消化し、孫や家族の死についての教育という役割もあったりするのです。
故人にとって生前もいろいろと家族に教育もしてきたと思いますが、最後に自分の遺体やお骨でも教育するというのが本当のところなのかもしれません。
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